たまには真面目にいろいろ考える

ええと、最近よく耳にするんですがね、若者の日本語が乱れておるんですと。正しい日本語を守ろうですと。曰く、会話に主語がないだの、ら抜き言葉は如何なものかだの、或いはコンビニのレジなんかで「○円からお預かりします」の「から」って何なんですのん? とかね。ね? よく聞くでしょ? これアレですよ、目くじら立ててんのはだいたいご年配の方たちですよ。僕はぶっちゃけ「言葉なんてなんでもいいじゃん、通じれば」って思いますね。言葉は文化です。でも文化である前にツールなんです。意思を疎通させる為の唯一のツールなんです。人が猿やめてからどれだけ時間が経ったのかはよく知らないけれど、未だに人間は言葉しか持ち合わせてないでしょ? 言葉で思考するから人間の心は明瞭なのだあね。それだってまだまだ不完全だと僕は思うの。だって100%相手に自分の気持ちを伝えることなんてできないからね。言葉だけでは完全な相互理解はあり得ない。例えば同じ映画を見たとしても感想は千差万別だろうし、僕の感じる赤色が誰かとまったく同じ赤色であるという保証はどこにもない。言葉なんて不完全なツールしかないから、人と人との間にはいつでも深い溝があるのさ。言葉の変化ってのはそれを埋めてくための、言わば進化だと思うんだけどなあ。音楽もそう。絵だってそう。アートって呼ばれるもんは結局全てランゲージだと思うの。言葉を超えたとこで理解し合いたいって、必死こいて生み出したものでしょ。時代に合わせて変化してくのは当然だと思うんです。つまり、年配の方々が眉をしかめる『若者の言葉使い』ってのが若者にとってはひたすらにリアルなわけでさ、古い感性で押し付けられた言葉がしっくりこないのは当然なんです。リアルじゃないもの。結局、止まっちまった自分の古い感性が新しい感性を受け入れられないってそれだけのことだと思う。
別にこんなワケわかんないことをグダグダ書くつもりも無かったんだけどね。それに僕はもう『若者』の範疇には入らない年齢だしさ、若者の肩を持ちたいわけでもない。でも美しい日本語を守ろう! なんて声高に言われると「ちょっと待て」って思うんだよね。いくら美しいと言われたって、使われないってのは時代から必要とされてないってことだ。

でもね・・・


ちゃんと敬語使えよ若者!


オマエラより遥かに長い間風雪に耐え生きてきた人間に向かってタメ口はないだろうさ。それは言葉の変化とか時代とか関係ないの。ちゃんと目上の人間に敬意を払ってるかどうかなの!